2015年1月31日土曜日

ナンバープレートの中国の省と別称

街中でたまに見かける「冀」のナンバープレート。なんだか日本語の「糞」に似ているのでなんとなく目で追ってしまうのだが、妻は自分で「一日に三回冀を見かけたらラッキー」と決めているらしく、助手席に出一喜一憂にしている姿を良く見かける。

「冀」は北京を取り巻くように位置する河北省のナンバープレートで「jì」と発音され、希望の「希」の元となった漢字である。

ちなみに北京市の車には如何にもプライドの高そうな「京(jīng)」。天津市にはそのまんまの「津(jīn)」。略称との関係をまとめてみると下記の様になる。


北京市  : 京(jīng)
天津市  : 津(jīn)
上海市  : 沪(滬)(Hù)
重慶市  : 渝 (yú)
河北省  : 冀(jì)
山西省  : 晋(晉)(Jìn)
遼寧省  : 辽(遼)(liáo)
吉林省  : 吉(jí)
黒竜江省 : 黑(黒)(hēi)
江蘇省  : 苏(蘇)(sū)
浙江省  : 浙(淛)(Zhè)
安徽省  : 皖(Wǎn)
福建省  : 闽(閩)(Mǐn)
江西省  : 贛(gàn)
山東省  : 魯(鲁)(lǔ)
河南省  : 豫(yù)
湖北省  : 鄂(È)
湖南省  : 湘(Xiāng)
広東省  : 粤(Yuè)
海南省  : 琼(瓊)(qióng)
四川省  : 川(chuān)
貴州省  : 黔(qián)
雲南省  : 滇(滇)(Diān)
陝西省  : 陝(Shǎn)
甘粛省  : 陇(隴)(Lǒng)
青海省  : 青(qīng)
チベット自治区  : 藏(cáng)
広西壮族自治区  : 桂(guì)
内モンゴル自治区 : 内蒙古(nèiměnggǔ)
寧夏回族自治区  : 宁(寧)(níng)
新疆ウイグル自治区  : 新(xīn)
香港   : 香(xiāng)
マカオ  : 澳(ào)

「魯」や「晋」など古代王朝の名残を残すあたりは、日本で言えば旧国名といったところであろうが、やはりこういう名前のところの方が人気があるのだろうと思ってしまう。

外部のナンバープレートが北京に入るためには許可証が必要なために、普段は他の地域の名前を見ることはほとんどないが、その中でもたまに目にするのは「冀」や「津」や「魯」といった近場が多いが、たまに「鄂」や「沪」を見かけると「おいおい、遠出してきたねぇ」となんだか微笑ましく見てしまう。

略称を見て、その土地の地理的関係性を理解し、されにその土地の歴史的背景をなんとなく思い浮かべることができるようになれば、なかなかのものだろうとできるだけ多く、現地にてそれらの「略称」を見かける様な一年になるようにと願うばかりである。

2015年1月29日木曜日

MAD Annual Dinner (年会) 2014

遅い中華新年もやっとあと少しとなり、前回の長期休暇から長い長い月日ずっと働いてきたオフィスも、今年を総括する時期になり、通年どおり忘年会にあたる年会(niánhuì)を開催することになり、昨年は星座ごとにチームを分けたが今回は出身地ごと、ヨーロッパ、アメリカ、日本と韓国の東アジア、シンガポールやタイなどの南アジア、そして中国国内は北京、広東、山西+山東などに地域ごとに分類し全部で9チームに別れ、それぞれに何かしらの出し物をするということで準備を進める。

その出し物と、一年を通してオフィスの中で特に目立った活躍をしたメンバーなどの表彰、そして事前に行っていたオフィス内部でのアンケートの結果発表を交互に進めながら、皆思い思いに食事とお酒を楽しんでいる。

特に2014年はアメリカのシカゴでジョージ・ルーカス氏の為の美術館のコンペを勝ち取るという大変大きな進歩を成し遂げ、そのチームをコンペ段階から纏め上げてきたプロジェクト・アーキテクトの表彰や、デザインの分野で特に目立った活躍を見せた3人の表彰、そして技術的な分野で大きな影響を与えてくれたスタッフの表彰。

それらの各部門で名前を呼ばれ、人によっては恥ずかしげに、人によっては誇らしげに前にでて表彰を受けている姿を見ると、やはりこうして仕事場において、仕事を認識され、そして認められているということを示す機会というのはやはりいいことなのだと思う。

というのも、シカゴの美術館のプロジェクトのワークショップのために、ローカル設計事務所として協同しているシカゴのVOA Associatesから二人の担当者が来ていたので、いい機会だとこの会にゲストとして参加してもらい、感想を聞いたら、「アメリカで同じ様に表彰などしたら、表彰されなかったスタッフから訴えられるから無理だよ」という言葉を聞かされたためである。

恐らく今の日本でも、ある企業においては同じような空気になってしまうことだと思う。認められなかった人間が、何かしらのクレームを言う姿が容易に想像つく。重要なのはなぜ彼らが認められ、どんな仕事内容が評価されたのか、それをしっかりと示すこと。それが彼らにとっても、そして他の人にとっても励みになること。そんなプラスの循環があることが仕事をする場として重要なのだと改めて思う一日になる。





2015年1月24日土曜日

オペラ 「アイーダ」 NCPA 2014 ★★★★★

久々に足を運ぶオペラハウス。今日は朝からオフィスに出て作業を進め、夕方から一緒にオペラを観に行くメンターご夫妻の家で早めの夕食をご馳走になり、彼らの中国語の先生と4人で車でオペラハウスへと向かう。

「アイーダ」はオペラ初心者の自分でも知っているくらいメジャーなオペラの演目。ジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)による作曲で、1871年に初演された140年以上もの歴史をもつオペラである。

メンターによれば、人間の根源的な悩みを描いているから非常に分かりやすいし、また入り込みやすい演目だという。その話の通り、古代エジプト時代のエジプトとエチオピアの争いの間で、恋に落ちながらも祖国を思う男女の姿を描きだす。

いつもどおり第1幕は努力の甲斐なく、あっさりとアルファ波にやられて完全に眠りに落ちながら薄めで舞台を追う形となり、幕間の15分の休憩でなんとか眠気を吹き飛ばし、そこからが勝負とばかりに集中する。

何でもこのオペラのために、ズービン・メータ(Zubin Mehta)というインド出身の世界的な指揮者を招待し、イタリアからセットと衣装のスペシャリストを呼び寄せ、膨大な費用を投入して容易されたこの北京での「アイーダ」。壮大な物語と音楽と反響しあうように、素晴らしいオペラ体験となったのは間違いない。恐らく自分の今まで観たオペラの中で、一番の舞台であったと言えるであろう。

エジプトに奴隷として拘束されているエチオピアの王女であるアイーダ(Aida)役には、現在世界でアイーダを演じされえたら3本の指に入るといわれている、フイ・ハ(Hui He、和慧)。その恋人である若きエジプトの将軍であるラダメス(Radames)にはスペイン人のJorge de Leon。アイーダの恋敵でありエジプトの王女であるアムネリス(Amneris)にはロシア人のMarina Prudenskaya。

壮大なコーラスで歌われる有名なの「凱旋行進曲」など、ところどころに「あ、この曲、アイーダの曲だったんだ」と思われる曲も盛りだくさんで、今後チャンピオンズリーグを観るときにはアイーダを思い出さずにいられないと思いながら観劇を楽しむ。


ズービン・メータ(Zubin Mehta)
フイ・ハ(Hui He、和慧)
Jorge de Leon
Marina Prudenskaya
ヴェルディ

2015年1月19日月曜日

ジュメイラ・モスク Jumeirah Mosque ★★


昨年末に訪れたドバイ。もろもろのやり取りが整理でき、打ち合わせの為に再度訪れることになる。今回は最初のワークショップと言うこともあり、マーと二人でたった26時間の滞在というタッチ&ゴーの様なスケジュールとなる。

北京を夕方に出て、到着したのが現地時間の夜の23時過ぎ。空港で待ち受けてくれていたのはクライアントがオーナーであるホテルの係員。車に乗り込むとおしぼりが出てくる快適な到着。しかも車内wifiが準備してあるのですぐにメールをチェックすることができる。

機内で睡眠をとることが出来たのでホテル到着後に二人して少しだけ夜のダウンタウンの様子を見に行き、明日の打ち合わせ様に届いている資料をチェックしたりして眠りにつく。

打ち合わせが昼からということもあり、前回の滞在で内部に入ることが出来なかったこのジュメイラ・モスクのツアーに参加するべく、あいにくの雨の中、朝の10時にモスクに到着。あまり雨が降らない街らしく、足元の石は水の為に表面がツルツルに。お陰で何年ぶりかに見事に転び、周りの観光客にも心配される羽目に。

雨ではあるが総勢30人近い参加者と一緒に、前回の「シェイク・モハメッド文化理解センター」同様、民族衣装に身を包んだ女性がハキハキとした英語でモスクやアラブの文化を説明してくれる。

その中でモスクの中で祈りを捧げる方向であるサウジアラビアのメッカにある黒いカアバについてや、お祈りの方式、その時間の決まりや、モスクの建築について、ドームがあるのは音響のためだとか、モスクの立てられている塔であるミナレットはかつて祈りの時間を地域の人々に伝えるためであっただとか、様々なことを学ぶことが出来る。

質問タイムになると、「ミナレットの数は何で決められるのか?」とか、「モスクの経済的な運営は地域からの寄付か、それとも政府の援助によるものなのか?」と幾つか気になっていたことを聞くことができた。

一度ホテルに戻り、迎えに来てくれたクライアントの担当者と再会を喜び、まずはランチと連れられていったのはオールドタウンにあるシリア料理のお店。そこにアメリカ人である担当者の上司だというUAEローカルの人も一緒になって食事を取ることに。その席で彼が説明してくれるのは、「ドバイの文化は入ってきたものを、様々な手を入れて融合させていくことだ。このシリア料理も30年もこの場所にあり、オリジナルから随分変わった独特の料理となっている。それがドバイだ」と教えてくれる。

その後はオールドタウンを案内してくれ、70年代80年代とドバイの建築様式がどう変化していったか、その中でこの地で生まれた建築家として彼がどのような思いを持っているかを語ってくれて、すぐ近くの歴史地区を散策することに。しかし生憎の雨の為に、狭い軒下の空間で皆でならんで「この地で雨は幸運の証だよ」といいながら雨をやり過ごすことにする。

その後敷地を見に行き、その後クライアントのオフィスで再度我々のオフィスの紹介と、プロジェクトの説明を聞き、それに対して我々の考え方を話し合う。方向性がまとまり、今後のスケジュールを話し合い、そのまま一緒にディナーへと出ることに。またしてもクライアントがオーナーだという別のホテルのおしゃれなステーキハウスへ。またしてもクライアントのオフィスから別のマネージャーも合流し、これでもかという量のステーキを平らげる。

「次はぜひ北京でワークショップをしよう」と話し合い、ホテルに戻り荷物をとってすぐに空港へと向かう。そして夜の1時過ぎに、束の間の滞在を終えて北京へと旅立つことにする。











2015年1月14日水曜日

助成金の功罪

日本の地方での仕事で設計をしていると、何かと「助成金」の話になることが多い。もちろん採算は合わないが、社会性が高く、将来性のある事業にはできるだけ政府が後押しをして援助を行ってでも事業を継続していけるようにする。

そういうコンセプトはもちろん正しいと思う。

しかし、世の多くの事業者は血の滲むような努力をし、削れるところは削り、自らの利益も圧縮してなんとか厳しい競争を生き抜こうと必死になっている。それでも競争原理に勝ち抜くことができなければ、どんなに真面目に生きていようが事業を閉じることを強いられる。

そんな厳しい現実を傍目に、「予算が執行されないから助成金が下りてこない。それではこちらは困ってしまう」と助成金ありきで運営をしている企業や団体が当たり前の様に存在している。

どのような助成金があるのかという情報に近く、どのような条件を整えれば申請ができ、そしてどのような手順で申請がおりやすくできるかのノウハウを持つ。

まっとうに法律にのっとってやっている。という顔をしながらも、行政に近くその地でネットワークを持つものに有利なシステムとなっているだけに、その地での利権として新しい流れや平等な市場競争を阻害する。

助成金がなければ、自立していない事業。助成金がなければ潰れてしまう企業。

そこに多くの税金を投入して、雇用を保ち、事業を存えさせるよりも、本来はしっかりと市場の中でも生き残ることができる努力を行っている企業に、さらに余裕のある展開を可能とするべく補助をする。本当に優秀な企業であれば、助成金が無くとも必ず頭を使い、手間を惜しまずに事業として周っていくはずである。

甘えを引き起こす助成金の功罪よりも、本当に意味のある先のつながる税金の使い方を期待するのと共に、ぜひとも行政には現在にどのようなタイプの助成金があり、それにどの企業が給付を受けているのか、ITリテラシーの低い市民にも一発で分かるような形で一般に公開するなどの努力をしてもらいたいものである。

Japanese Junction 「Emerging Trajectories」

海外に出て建築を学び、その後海外若しくは日本国内にて建築の実務を積み、独自の建築活動をしている若手建築家の活動内容を紹介するという展覧会が開催され、その一環として開催されるイベントにゲストとして招待していただいた。

「軌跡(Trajectories)」というキーワードを元に、留学前の日本での時間、留学中の海外での時間、そして留学後のその後の時間と「軌跡」を辿ることで、建築に関する考え方だどのように変化し現在に至るのかを、4名の展示参加者にスライドを使って説明してもらうという主旨のイベントである。

そこに私も招待され、同じテーマに沿って話をして欲しいとのことでお誘いをいただき、少しでも今までの自分の経験が若い人や学生にとって何かしらの意味を持てば本望だと、スケジュールを調整して弾丸ツアーで東京に向かうことにした。

イベント当日に、トーク会場とは別に用意された展示会場に足を運び、4名の展示者から事前に展示作品について説明を受け夜のイベントに備え、その後会場のSHIBAURA HOUSEへと移動し、打ち合わせなどをしながら夜のイベント開始を待つことに。

アメリカやヨーロッパの大学や大学院に渡り、その後現地の建築事務所に就職したり、また第三国に渡り建築に携わったり、帰国して日本の設計事務所に勤めたり、また日本国内で自分のオフィスを始めたりと、4名のまったく違う辿ってきた軌跡を聞いたのち、「何を話せば彼らにとって一番意味のある時間になるだろうか」とこの数週間仕事の合間に頭を巡らせては話の主題を考えてきたプレゼンを開始する。

開始時間が遅れたために少し時間がおしていたが、45分間も時間をもらっていたので十分終わるだろうと思いながら話を進めるが、気がついたときには既に1時間を超えるほど話してしまい、スピードを上げて切り上げることに。

その為に出展者とのディスカッションの時間が十分に取れなくなってしまって大変申し訳ない思いをしてしまったが、それよりも少し上の世代で、同じような時間と苦悩を経験してきた建築家として彼らが今必要であろうと思われるメッセージはプレゼンテーションの中で十分に伝えられたかと思うので、それで相殺してもらうことにする。

トークの中でも何度も繰り返したが、海外に出て建築を学ぶことの一番の利点は、「もし海外に行かなかったら過ごしていたであろう日本での時間。その時間の間に建築家として成長したかもしれない自分の姿」を常に意識することであり、向き合う建築の実務の内容が違い、自分の思い描いていた建築家像と現在の自分の姿とのギャップが徐々に偏差していく中、その「いたかもしれない自分の姿」との競争に負けることなく、緊張感を持ちながら現在を過ごし、そして成長していく明確な指標を持って日常を生きることであろうと思う。

日本ではできないようなプロジェクトを海外で経験したとしても、日本で経験すべき建築の実務が抜けてしまっているのではという恐怖。

外から見る日本の現状は良く分かるようになったとしても、日本の深いところからプロフェッショナルとして建築に向き合う能力が備わったかという自問自答。

そんな「仮の自分」の姿をより正確に描き出すためには、日本に留まりブレることなく真摯に建築に向き合い、建築家としての職業的能力を高めている尊敬する友人がいい基準となってくれるはず。

そんな「仮の自分」の姿にプレッシャーを与えられながら、内からと外からの二つの視線を合わせ持ちながら成長していくこと、それこそが海外に出て建築に向き合う本質なのだと改めてのこのイベントを通して理解する。

ぜひとも、今夜の時間が、この場に居合わせた誰かの軌跡にとって重要な意味を持つ「磁場」となることを期待して、その「磁場」の影響を何年後かに目の当たりにすることを楽しみにしておく。

2015年1月6日火曜日

月の花 1月 梅

習慣としてやろうと決めても、時間はあっという間に流れてしまい、然るべき時になってもまだ完成していない。そんなことは良くあるもので、「月々の花の絵を描いてはフォトフレームに飾ってその月を過ごす」と決めては見たものの、あっという間に一月に入ってしまっているのに気がつき、焦って1月の花・梅を描くことにする。

1月 梅 / 水仙
2月 梅 / 椿 
3月 桃 / 沈丁花 / 白木蓮 
4月 桜
5月 バラ
6月 紫陽花 / 花菖蒲 
7月 向日葵 / 朝顔 / 蓮
8月 コスモス / 向日葵
9月 彼岸花  / 金木犀
10月 シクラメン / 山茶花 / 金木犀
11月 菊
12月 水仙

こうしてじっくりとものを観察する時間というのは、「如何に多くの情報を如何に短時間にて処理することができるか?」だけが求められるような現代の情報社会においては、かえって非常に価値の高い時間であるということがよく理解できる。

丸いつぼみの横でフッと花弁を開く、そんなフラジャイルな梅の姿に新しい一年の始まりを感じることにする。




2015年1月4日日曜日

咸亨酒店(かんきょうしゅてん、xián hēngjiǔ diàn) ★


魯迅故里を西に歩いていくと、魯迅の作品「孔乙己」(こういっき、kǒng yǐ jǐ)の舞台として描かれた咸亨酒店(かんきょうしゅてん、xián hēngjiǔ diàn)が見えてくる。通常「酒店」というと「ホテル」の意味だが、ここでは居酒屋として使われており、科挙試験合格を目指していた主人公の孔乙己(こういっき、kǒng yǐ jǐ)が日々酒を飲みに訪れていた酒屋という設定である。

その舞台のモデルとなったのが同名のこのお店で、実は魯迅の叔父さんが開業した酒屋だという。入口脇にはその飲んだくれである孔乙己(こういっき、kǒng yǐ jǐ)の像が建てられており、その彼が飲んでいたのがこの街の名前が冠されたお酒である紹興酒。

この紹興酒は中国では「黄酒(huáng jiŭ)」と呼ばれ、米を原料とする醸造酒であり、その代表的ブランドがこの「紹興酒(shào xīng jiǔ)」という訳である。店内ではこれまたこの地の代表的料理である「臭豆腐(しゅうどうふ、Chòu dòufu)をはじめ、様々な江南料理を楽しみながら、紹興酒を飲むという居酒屋となっている。

多くの観光客が訪れるのが良く分かるように、注文は自分でカウンターまで行き、写真を見ながら注文するシステム。運ばれてきた紹興酒はお碗に注いで飲み、孔乙己の雰囲気を味わえるようになっている。








魯迅故里 ★★


かつて事故が起きた為に埋められてしまった高速鉄道である和諧号(和谐号、わかいごう、hé xié hào)に揺られ到着したのは紹興(绍兴、しょうこう、Shào xīng)の街の北に位置する駅。

比較的新しい路線なので、旧市街中心を避けて、随分と距離のあるこの場所に到着するために、観光地の密集する市街地までタクシーで向かうことにする。タクシーから眺める風景は市の外縁部に100メートルと超える高層ビルが立ち並び、日本とはまったく違った開発が作り出す風景を超えると、徐々に水郷の街らしくあちこちに運河が見えてくる。

明らかに密度が上がったと思える旧市街地に到着すると、事前の調査でいまいちスケール感が分からなかったが、思っていたよりも整備され新しい街の雰囲気が漂う一角に、「魯迅故里(lǔ xùn gù jū)」が見えてくる。ネット情報では良く理解できなかったが、車両の入場を規制した道沿いに、魯迅の生家である魯迅故居、魯迅の書籍などを展示している迅紀念館、魯迅が子供の頃に通った塾である三味書屋、魯迅が子供の頃遊んだ畑である百草園などが保存されており、一般に公開されている。

入場にチケットが必要なところとそうでないところがある様で、エリアの入口付近にあるチケットオフィスで訪ねていると、日本語でのガイドもできるということなので、せっかくなら詳しく理解しようと依頼することにする。

生まれ育った魯迅故居から始まり、その向かいに位置する三味書屋、少し離れた親戚の家、その裏にある百草園をめぐりながら、「もし魯迅が長く生きたなら、彼は共産党に入党したのだろうか?」などとなかなか興味深い会話をメンターご夫妻としながら、古都・紹興観光が始まったことを実感する。