2013年1月30日水曜日

「Absolute Towers」竣工のお報せ

弊社MADの設計したカナダ・トロントに建つアブソリュート・タワー(Absolute Towers)が昨年竣工したのに伴い、プロジェクトの概要などがまとまってネットに紹介された。

Absolute Towers

そのほとんどが既に事務所を離れているチームの名前と共に、Director in Chargeとして自分の名前も載っている。


「今までの常識に囚われることなく、新しい時代に相応しい建築の姿を追い求める。」

そのプロセスで幾度と無くぶち当たる様々な困難。経済性や機能性など、決して後ろにおいてくることができない与件を、厳しい条件の中、捻り出すアイデアによってクリアすること。建築の世界に身をおいている人間なら、誰でも身に染み、理解している産みの苦しみ。

「美しい」だけでは建築は成立せず、その後ろ側、一枚の竣工写真の裏側に隠れた様々な過程と乗り越えてきた困難。外からは決して目にすることの無い、身を切る思いとともに時間を過ごし、容赦のないやりあいを経て設計を前に進めていく。

その過程で学んだのは、いくら経験が足りなくとも、想いによっていくらでもそれを補えること。

三人のパートナーである、マとチュンと一緒に、必死に考え、自分達の信じるものを実現するために、何ができるか、何をしないといけないか、その為に闘い、葛藤し、言い合い、苦しみ、すべてを投げ打ってでしか、成しえないこと。

安易な妥協では誰にも感動を与えられないことは誰もが分かっていながら、問題を解くためには既存の方法が一番容易だという甘い蜜に吸い寄せられる気持ちに胸をギュウギュウ締付けながら、それでもオリジナルであろうと前を向くこと。

それほど、常識の範囲から飛び出るということがどれだけ難しいかということを身をもって実感したプロジェクトであり、我々MADに多くのことを教えてくれた時間となった。

建築というのは、設計図として未来を思い描いた時から時間が進みだし、様々な思い、様々な経験を通してプロジェクトを体験し、それが完成し、世の中に見ていただける時にはすでに建築家は次のステージでより新しいことを考えているという建築というモノの集合体がもたらす時間のスパンという宿命を背負っている。

現在も、同じように別のプロジェクトに毎日、毎時間、苦しみながら、何でこんなことをしているのだろうと思いながらも、それでも投げ出すことができない想いをもって建築に向かっていく。

いつの日か、そんな想いを持って産み出した建築が少しでも多くの人の目にとまるように。それが少しでも多くの人の素晴らしき記憶の中の空間としていつまでも残っていくように。

建築家の毎日が、この竣工写真のような晴れがましい時間ではなく、その後ろに隠れた、そして決して外部に知られることも無く、またその必要もない苦しみの時間をただ粛々と消化していくことの積み重ねであるということ。それを改めて考えるひと時となった。

2013年1月28日月曜日

「パプリカ」 今敏 2006 ★★★★


アニメにしかできないこと。アニメにしか描けない世界観。それよって様々なクリエイターやデザイナーに刺激を与える。その価値観を意識的かそれとも無意識的にかは別にしてしっかりと見据えていたからこそ、現在の日本のアニメ文化、ジャパニメーションがこれだけ世界中で文化として認知されているのだろう。

バイオハザードのようにCGが如何に実写に近づくかではなく、アニメというヴァーチャルな世界の中だからこそできり映画の撮り方。そのコマ割り。世界観の構築。未来の在り方。

そういう視点から見ていくと、歴史上評価されてきた、もしくは偉大な映画監督に影響を与えた作品というのはやはり限られてくるであろう。

映像作品として歴史に名を残すにはその世界観、ストーリー性、撮影方法などすべてにおいて高いレベルを要求されるが、その全ての点で高得点を獲得し「名作」として名があがってくるのはいつでも「アキラ」、「攻殻機動隊」、「宮崎駿の一連の作品」とお決まりになっていたところに、21世紀になってサマーウォーズなどの作品が新しい風として名乗りを上げてきているというのが現状である。

建築の世界で生きていると、このように未来を描く想像力豊かな映像作品はいつでも様々なところで引用され、「知っておくべきこと」として頭の中にインプットされている。そして知らず知らずの上でその動向にアンテナを張っていることが常となるのだが、ついついのサボり癖で、0年代初頭までしかキャッチアップしてなかった。

しかし10年代に突入し、その世界でもほぼプレイヤーが固まってきた感のある最近。重い腰を挙げてこの十年のアニメ事情を勉強するかと調べ出すと、上記の名作を超える評価を得たと、いろんなところで取り上げられているのがこのパプリカ。

原作含め全くの勉強不足・・・。映画の制作プロダクションをしているフランス人の友人と食事をしている時にこのパプリカの話になるとやはり知っている様子。このフランス人の友人は日本オタクでとにかく物知りな上におしゃべり好きなので、何か話をふってあげるとずっと喋っているので、その間に出てきた食事を食べ進めるという作戦が有効である。

それはさておき、パプリカ。人の夢に入り込むというインセプション的な内容にも関わらず、その世界観は科学の進化した未来という感じからは程遠く、あくまでもアキハバラ的なオタク世界の延長線上に位置し、その映像もまた見事。各コマの中で、ここまでディテールで破綻することなく映像を作り上げるには相当な想像力を要するだろうとゾッとする。オリエンタルな雰囲気も併せ持ってアメリカでの上々な興行収益というのも納得。

ストーリーは原作の筒井康隆に依るのだろうが、それに目をつけ、キャラクターに真の命を吹き込み、行の間に見える360度の世界を構築していくそのクリエイティビティティー。監督の今氏が脳裏に見たであろう毒々しい世界がとても新鮮。とにかく音楽含めて素晴らしい。デジタルの刺激に慣れすぎて何も新しくない世界において、それでも圧倒的な刺激を与えてくれて、アニメのあるべき姿を見せてくれる必見の一作。


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スタッフ
監督 今敏
プロデューサー 丸田順悟
制作 プロデューサー 豊田智紀
企画 丸山正雄
原作 筒井康隆
脚本 水上清資・今敏

キャスト
林原めぐみ パプリカ/千葉敦子
江守徹   乾精次郎
堀勝之祐  島寅太朗
古谷徹   時田浩作
大塚明夫  粉川利美
山寺宏一  小山内守雄
田中秀幸  あいつ


2013年1月21日月曜日

引き出しに仕舞う


「仕舞う」:終りにする。片付ける。入れ収める、殺して始末をつけるの意味も。

仕事場でも、家でもそうだが、物に溢れた現代社会で生活をしていると、その空間はすぐに物で溢れ、ぐちゃぐちゃと秩序のない状態に陥ることになる。適度に整理整頓をして、捨てるものは捨てて、必要なものは分類して仕舞っておく。そうしないと生活が成り立たなくなる。

テレビでよく映される「ゴミ屋敷」。あんなによく溜め込めるな・・・と思っているこちら側の我々も、ちょっとしたきっかけで止め処なく押し寄せる情報量と物量に押しつぶされ、自らを律する意思があっさりとそれらの波の呑み込まれ、一見したところは違うが本質的にゴミ屋敷という状態になんてあっという間に陥ることになる。

それと同じことが情報社会に生きる我々の頭の中でも起こっている。

経験したこと、考えたこと、見たことなどをは通常整理されることなく、やりっぱなしのぐちゃぐちゃに散らかっている状態でほったらかしにされている。デジカメで加速度的に増加するデータは、秩序立てることなくパソコンのHDの容量の上限という限界に向けて、ただひたすら無秩序に保存されるだけ。

ぱっと見ただけで分かるような、散らかりっぱなしの家に住んでいる人が、何かを出そうとしてもすぐに出てこないように、頭の中でも知識や経験への回線は混線状態。
自らが経験し、見て、聞いて、感じたこと。自分の過ごした時間を自分のだけのものとして変換してくれるはずのそれらの要素を、一度立ち止まり、それを手にとって、どんなことをその時に考えたか、を再度考えながら、一つ一つ自分で考え、その考えに言葉を与えていく。そのものをもう一度別の視点で眺めて、その時に見えなかったものを見つけ出し、自分自身で理解し、消化していく過程。その一つがブログにという言語化と視覚化の作業。

それは一つ一つを整理整頓して、引き出しの中に仕舞っていくことと極めて似ている。

ぼーっと無策に忘れていくのではなく、いつでも引き出せるように、思い出せるように整理をしてから一度忘れておく。それが重要。

引き出しがあるだけでなく、それがどの様に分類され整頓されているか、独自のシステム構築も同じくらいに重要度を増してくる。その分類と検索システムがしっかりしている人と会話をすると、知識と記憶が極めて正確に引っ張り出され、しかも情報を組み合わせることが次から次へと新たなる会話を紡ぎだしていく場面に出会う。

その心地よさ。

加速度的に増加する情報、その波に溺れるのではなく、白旗を揚げるのでもなく、出来る限り自分の身体と脳を守るために、しっかりと仕分けをして仕舞っておくこと。それが現代を生き抜く鍵であろう。

2013年1月20日日曜日

「ハッシュパピー バスタブ島の少女」ベン・ザイトリン 2012 ★★



サンダンス国際映画祭グランプリ受賞に、主役の女の子が史上最年少で米アカデミー賞主演女優賞にノミネートされるなど、何かと前評判の高い一作。

インターネットがインフラ・レベルとして生活に入り込むようになった現代の情報社会では、どんな映画を見る時にも、既に前情報としてどの映画祭で賞を受賞したということを知っていることになる。

それらの情報から、これはどこで評価を得た映画なんだ、どの映画祭がどのような作品に賞を与える傾向があるか大体イメージを持ち合わせていると、見る前にこの作品はやや芸術系で派手さは無いが高い評価をうけた良い映画なんだという先入観を持って見ることとなる。

それが情報社会の宿命であり、それらの偏見のなか、自分なりの受け取り方をできるかどうか、自分の視点で判断ができるかが極めて重要になってくる。そんなプレッシャーを感じなければいけないほど、多方面から絶賛されている一作。

原題の「Beasts of the Southern Wild」。これがデビュー作という29歳の新人監督ベン・ザイトリンが、若かりしころからこのチャンスを掴み取るまでに温めつくしてきたと思えるアイデア、想いが詰まった濃厚な映像作品となっている。圧巻は過酷な環境のなか成長していく子供の心の中で育つその野性の象徴として描かれる獣たち。一体どうやって撮影したのか?と思わずにいられないその迫力。

舞台は原住民文化が多く残るといわれるルイジアナ州。居住が許されない川沿いに独自のコミュニティを作り人種も関係なく住み着く人々。そのコミュニティはバスタブと呼ばれ、コミュニティの中で教育を行い、自足自給的な生活を営む。

そのバスタブの最大の脅威は、突然襲ってくる大規模な嵐。巨大な嵐は川の水を氾濫させ、工業地域へと氾濫が押し寄せないように政府によって作られた堤防が水の流れをせき止め、バスタブのある地域の多くは、水の中へと沈むことになる。

そんな話を見ていると、かつて訪れたデンマークの首都コペンハーゲンで現地の建築家に案内してもらった政府公認の自治区、クリスチャニア(Christiania)を思い出す。税金を支払うことを拒否したヒッピー達が集い独自のルールを作り出して暮らしている地区。

案内してくれた建築家によると、そのコミュニティに入るためにはコミュニティの中の誰かの紹介がなければいけなく、一度コミュニティに入ると、自治会によって割り振られて仕事をして、食事などは給付されるという。そんな訳で、現代社会から敢えて隔絶した理想郷のイメージが重なるのか知らないが、世界中の有名アーティストがここでコンサートを開くことを願う人も多いという。

そんな話を思い出す現代の近代社会に属さない人々の話。物理的距離はそんなに遠くはないければ、自分達の乗っているルールから離れているだけで、異端としての距離が現れて、急に「あちらの世界」的な見え方がしてくるから不思議である。

世界がフラットになった情報社会。何でも目新しくはなく、なんでも聞いたことがある、何でも知っていて、何でも調べればすぐ出てくる。そんな中でも新しい物語を作らないといけない、見つけないといけない。そうなればなるほど、どんどん重箱の隅を突き、こんな人たちもいたんだ、こんな生活まだあったんだ、という風にネットではたどり着くことの出来なかった場所まで世界を広げ、より透明へしていく。

しかし、それは今まで知られてなかったことを、また一つネットのデータベースに加入させて以上にはならず、映画として何かしら新たなるブレイク・スルーをもら足したかといえばそうともいえない。

だから難しい。誰もが知ってる時代だからこそ、作り手の苦難が強く見える一作。それだけ悩み、現代を考慮し、それでも映像の力を信じたつくりでの想いがにじむ一作。

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第28回サンダンス国際映画祭グランプリ 最優秀撮影賞受賞
第65回カンヌ国際映画祭カメラドール
第85回米アカデミー賞主演女優賞、作品賞、監督賞、脚色賞ノミネート
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スタッフ
監督 ベン・ザイトリン
脚本 ベン・ザイトリン

キャスト
クワベンジャネ・ウォレス
ドワイト・ヘンリー
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作品データ
原題 Beasts of the Southern Wild
製作年 2012年
製作国 アメリカ
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2013年1月19日土曜日

「007 23 スカイフォール」サム・メンデス 2012 ★★



007シリーズ23作目として50周年の記念となる一作。

最大の敵は自らを最もよく知る息子ということで、Mへの復讐に燃えるかつての有能なエージェントによるMI6への攻撃が始まる。

今回の都市は、アヤ・ソフィアを遠めに見ながら、雑多な街のルーフ・スケープで行われるアクションの場としてのイスタンブール。向かいのビルにいる人の顔が認識できるほどの密集した現代のメトロポリス・上海。そして古きより租界の雰囲気と人間の欲望の交錯地としてのマカオ、そしてボンドの生れ故郷である広大な自然に囲まれたスコットランド。

ボンドガールは、一体国籍はどこなんだろうと思わずにいられないエキゾチックな仏女優ベレニス・マーロウとマルチ・ナショナルとなった現代のロンドンを代弁するような英女優ナオミ・ハリス。

50年、そして23作とシリーズとして1周し終えると、異国となる場所も少なくなり、エキゾチックな雰囲気を醸し出す異国の女としてのボンド・ガールもヨーロッパへと回帰するのかとなんだか納得する。

それと同時に物語上の世界でも1周終え何かしらのリセットが必要となり、その象徴となるのが母なるMの死去。そして新たなる若きQや、次なるMの存在も描かれるが、やはり仮想敵国を描きにくくなってきたポスト・グローバス世界。見える敵から見えない個人としての敵、無国籍の敵へと話を進めていくが、秘密兵器にもプロットにもいまいち目新しい感じが滲まないのは現代の抱えている壁の大きさを物語っているのだろうと思わずにいられない。

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監督 サム・メンデス
主題歌 アデル

キャスト
ダニエル・クレイグ ジェームズ・ボンド
ジュディ・デンチ
ハビエル・バルデム
レイフ・ファインズ
ナオミ・ハリス
ベレニス・マーロウ
ベン・ウィショー
アルバート・フィニー
ロリー・キニア
オーラ・ラパス
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原題 Skyfall
製作年 2012年
製作国 アメリカ
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2013年1月18日金曜日

「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」馬場康夫 2006 ★



誰かが「結構面白いよ」、と言ったいたのが耳に残っていて、ランニングしながらだから日本語の映画の方が楽かもな・・・と思って見たこれまたタイム・トラベル系の一作。

タイム・トラベルが可能であれば何をするか?

を大きく分類すると、現在に不満を持っており、過去に戻って行った選択を修正し、自分にとってより良い現在へと修正するか、それとも現在に十分満足しており、知的好奇心などから過去へ戻って実際に知ることの出来なかった世界を見てくるかの二つに分かれるのが普通かと思うが、欲望で出来ている人間世界、どうしても前者のものが多くなるの人の性というものか。

海外のタイム・トラベル系のものに比べると、洗濯機、バブル崩壊を防ぐなど非常に設定のしょぼさが目に付くが、壮大かつ緻密に世界観を構築し膨大な予算をかけて映画を撮るというのではなく、娯楽作品の範疇でクスリと笑えてホトリとできる脚本で、そこそこ客が呼べそうなキャスティングをし、レインボー・ブリッジのCGに随分お金をかけました的な内容は否めない。

海外でも評価されるような渋い作品は沢山でてくるようになった日本の映画界だが、一本くらいハリウッドや中国の度肝を抜く様な壮大な世界観を持った一作を出してもらいたいものだと思う。

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スタッフ
監督 馬場康夫

キャスト
阿部寛
広末涼子
薬師丸ひろ子
吹石一恵
伊藤裕子
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製作年 2006年
製作国 日本
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2013年1月17日木曜日

建築とアートの違い


建築という世界に身をおいていると、定期的に向き合うことになる設問。

「建築とアートの違いとは?」

学生などに話をする時にはよく聞く様にしているのだが、これこそ建築の本質をよく現してくれる設問に他ならない。

人によってその答えは違い、その人が何を重要視して建築に取り組んでいるかが良く透けて見えるともいえるが、現在の自分にとっては「クライアントがいるかいないか」にしかないと思われる。

では、それどういう意味だろうか?

建築はあくまでも自分以外の誰かの要望があって作り出す機会を与えられるものであり、つまりはその自分以外の誰かが何を思って、何をイメージして、どんなものを作りたがっているのか?それを知らないといけない。
つまりは建築の存在の前提には、コミュニケーション能力が横たわっているということ。

コミュニケーション力には「語学力」と「コミュニケーション能力」が大きく関与してくるのだが、「語学力」とは一般的に言われるような言語の問題ももちろん含むが、それ以上に大きな枠組みでの「語学力」とする。

ある人が何か建築物を作りたいとして、ある建築家のところにやってくるとする。その誰かが、建築家である自分と同じ言語を介するとはもちろん言えなくなってきたのがこのフラット化した世界。何をどうという機能的なことを理解するための「基本的」な言語能力。英語や中国語が新たなる世界の標準語として成立し始めている現代において、仕事がボーダーレスしていくのを食い止めることができない状況で建築家にも当然その能力は求められてくる。

その上で、多言語を母国語とするその誰かが発した言葉の裏に潜む、文化的慣習まで含んで理解していく意味での「語学力」。これはその地で生まれ育っていない外部からの人間にとっては一番ハードルが高い障害となるのだが、その言語を解する仲間と共に設計をするか、それとも時間をかけて、当地の人間とのコミュニケーションや文献などからの知識によって壁を越えていくしかなくなってくる。

そのような基本的な「語学力」だけではなく、同じ言葉を母国語とする人の間にも存在する言語のギャップ。たとえば、建築を生業としている以上、自分の親のような世代の方からも「先生」と呼んでいただき仕事を行う機会に出くわす。自分よりも遥かに長い時間を生きてきて、自分よりも遥かに良質なモノと空間を体験してきている人たちと、どのような「言語」でコミュニケーションを行うのか?

デザインがどうのとか、形がどうの、性能がどうのとかではなく、それらすべての前提に存在する、違った時間を過ごしてきた人たちとどのように未現在の空間のイメージを共有するインターフェイスを構築できるかの問題としての「語学力」。

80歳のお祖母さんが、冬場の階段の上り下りが膝にきついと言う時、その痛みをその人のものとして理解する能力があるかどうか。

経験してないこと、見たことがないこと。そのギャップをどう埋めるか、その距離をどう縮められるか。

「語学力」というのは、英語や日本語という言語の問題ではなく、その人が長年過ごしてきた時間の中で、自分の中で培ってきた想いが乗せられて発せられたある言葉の意味を、その人が意図した意味として捉えられるかどうか。

その想像力としての「語学力」。

その為に有効な手段として、自らが主人公として数々の世界を、そして時間を体験できる疑似体験として小説を読むこと。文字というものから想像力を駆使し、世界と風景を構築し、自らの身体体験として経験し理解すること。

それと同様に映画という視覚芸術によって、国籍も時間も超えて生活と空間を体験すること、知ること。

そして何よりも、できるだけ自分と異なった年齢、異なった国籍、異なった時間を過ごしてきた人々と交流を持ち、話をし、人間を理解すること。

それをどれだけ積みかさねていくことができるかが、ある建築家が生み出す空間に良い時間を重ねてきた人の肌の様に、どれだけの「皺」が刻まれているかに比例していく。

その時間の積み重ねで養われた「想像力」によって、ある誰かとの会話の中で、その人が何を意味して発しているのか、どんな空間がその欲望を満足させうるのか、それが「コミュニケーション能力」。

「語学力」と「コミュニケーション能力」。その二つがあって初めて設計というスタート地点に立てるのだとやっと分かってきた30代半ば。

今年も出来る限りこの二つの能力を伸ばすことに力を入れようと心に誓うことにし、久々に時間が取れそうな週末に溜まった映画を見ることへの口実とする。

2013年1月16日水曜日

「ミッション:8ミニッツ」ベン・リプリー 2011 ★★★★



年末に購入したIPadの有効利用のためにと、ジムでのランニング時を使って、中国版YouTubeである优酷であれこれ映画を探してみる。そんな訳で、数日間で見終えた一作。

乾くるみの「リピート」を思い出さずにいられなくなるタイム・トラベル系の内容。村上龍の傑作「五分後の世界」の様な完全に平行して存在していくパラレル・ワールドではなく、あくまでも一本の時間軸をベースとした世界の中で、その時間軸を移動しながら徐々にパラレル・ワールドへと偏差していくという感じ。

想像力豊かな小説家、映画監督によって様々な未来の姿が描かれてきたが、「こんな考え方があったか!」と衝撃を持って迎えられる作品が徐々に減ってきたフラットなグローバル社会のなか、久々に現れた衝撃作。

タイム・トラベルとして、物理的な存在の身体を送り込むのではなく、ソース・コードとして限られた時間だけ過去に挿入される神経。その論理的背景や技術的裏づけ。何よりもソース・コードとして送られる人物が、どのような状態の人物であるかという極めて現実的な描写。

「リピート」の様に、何度も何度も、求める結果が得られるまでは繰り返し過去へと送られる。そのクローズド・サークル。そのクローズド・サークルが壊れた瞬間に立ち上がるパラレル・ワールド。あったことが無かったこととして成立するその世界のなかで、タイム・トラベラーは生きていくこと。その成立条件。最後の最後までしっかりとロジックの破綻が無いかとしっかり練られたその世界観に感服する一作。

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監督  ダンカン・ジョーンズ

キャスト
ジェイク・ギレンホール
ミシェル・モナハン
ベラ・ファーミガ
ジェフリー・ライト
マイケル・アーデン
キャス・アンバー
ラッセル・ピーターズ

原題 Source Code
製作年 2011年
製作国 アメリカ
配給 ディズニー
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2013年1月13日日曜日

等比数列

先日読んでいた本の中に、戦後日本においては会社の従業員の能力は大体なだらかに入社から上がっていくのが一般的であり、それは地道な手作業や組み立て系の共同作業が業務の中心を占め、組織固有のスキルが幅を利かせていたからだという。それはつまり、同じ会社にどれだか長く所属しているかが、「仕事ができる」能力にに比例するという。

それに対して現代の仕事の在り方では、ビジネスのトレンドが頻繁に変化するために、その変化についていき、経験と知識を変幻自在に操り、新しいトレンドの中でも自らの存在意義を見つけ出せる人とそうでない人との差が大きく開いていくとする。

年を取ると、学習能力が落ちてくる。頭が段々固くなって、新しいものが吸収できなくなってしまう。ぶれない軸を持つことは大事だが、現実の変化についていかなければ、言っていることが古くなってしまう。変化の速い次代だから、キャッチアップしようという意識を無くした途端、持っている知識が陳腐化する。それを防ぐために高い意識で日々勉強し続ける必要があるが、それには体力も欠かせない。

そしてかつては、我武者羅に働いて仕事のやり方を身に着ける20代前半、次第に仕事のノウハウが見えてくる20代後半、部下もついて上と下、さらに仕事先との関係性も築けてきて、仕事がノリだす30代前半、実働部隊から徐々に管理職へ足を踏み出しだす30代後半、ある部署を任され責任を持ち出す40代、より大きなビジョンを持って企業を動かす50代、将来のトレンドを見据えて会社の行くべき道を示す60代。

などと括れた時代では、組織に属するだけで身体にかかるある種の遠心力に身体を任せていれば、描く円弧と同じように給料や待遇もよくなっていき、思考停止し培ってきた経験の上に胡坐を描いていれば、退職までもかその後の老後も十分手厚い待遇を受けられることとなっていた。

しかし、その前提が崩れ、世界規模の競争にさらされた現代は、黒船来航よりも更に大きな衝撃をもって受け止め、社会の在り方を変えていかなければいけない時代に突入している。

そんな時代に働くものとして何よりも必要なのは、常に社会に目を向けて、何が起きているか自分の目で見て考えて、何が求められているのか自分の頭で考えて、どういうことで自分の価値を社会の中でつくりあげることができるかを自分の手で実現できる。そのために不断の努力と学習を続ける強い心。それが無いければ35歳でピークアウトという説に乗っ取って、「歳はいっているが使えない」社員になってしまう。

パラダイム・シフトした世界を受け入れ、幾つになっても学び続ける。そんな人には年々増大するデータ容量とコンピューターの演算能力同様に、等比数列的にその能力も増大していくのだと実感する今日この頃。

2013年1月12日土曜日

「Looper ルーパー」ライアン・ジョンソン 2012 ★★



タイムマシンに関する話は限りないほど作られてきたが、実際問題タイムマシンが使えたら一体どの様に使うのか?

起こったはずの事をその原因からなくしてしまえば、現在がまったく違ったものになってしまうというパラレル・ワールド。そうすれば世界の秩序は守られず、なんでもありの混沌に陥るために、厳しく政府がその使用を制限する。しかしどの時代にもテクノロジーを使って暴利を貪る社会の闇が存在し、では彼らは一体何をするのか?というところに行き着く。

組織の邪魔になる相手を、未来から過去に送り、予め未来から送られた仲間によって率いられた組織の手によってそのものを始末する。一見道理的に見えているが、よくよく考えると、現在に邪魔な存在を、過去に遡って消すことで、現在の存在もなかったことにしてしまう。というのが一般的な想像力だと思うのだが、いまいちそのロジックがつかめない。

通常こういうタイム・トラベル系の話だと、パラレル・ワールドが交錯しないようにと、未来から来た自分が現在の自分に出会わないようにというのが、バック・トゥー・ザ・フューチャーからの常識であるはずだが、それをあっさり裏切り、二人そろって事の収集にあたるという設定もなかなか興味深い。

日常の本当に些細な選択で分かれた二股が、未来の世界で大きな違いとなって現れる。そして現在に生きるすべての人間のすべての行動が、未来の源泉となる可能性を含み、その様々な事象が複雑に絡み合いながら未来に向かって進んでいく。それを見ると、人がどんなに抵抗しようとも、どんなに踏ん張ろうとも、少々の揺らぎを含みながらその進化の道は歪むことなく同じ方向に向かっているのだろうと思わずにいられない。恐らく存在するパラレル・ワールドもそんなに距離を持って存在するのではなく、ほんのちょっと、よく見ると違っているというレベルの差で存在しているはずであろう。

未来を描く映画の楽しみは、未来の都市がどのように描かれるかであるが20年後の近未来の上海は、高密度で密集する高層ビルの高層部分での接合が増えて、下層部はより流線的なデザインと、極めて現実的な都市として描かれている。これだけの都市を設計するには、建築の知識のある人物かある程度の設計図や、パースを起こしているのだろうが、コンピューターの画面の中だけに存在するという、建築が持ちうる他の様々な与件を無視することが可能な中で表現された未来の都市への想像力が、あまりにも刺激にかけて、現在を作り出す建築家達に新たなるイマジネーションを想起させないのはどうにも寂しい思いに駆られてしまう。

衝撃のクライマックスがあるわけでもなく、やっぱりいつになっても、未来を作るのは人間であり、その人間は家族や恋人という他の人間との関係性の中で育ち、どれだけ愛情を注がれて育つかによって、描く未来もまた違ってくるということへの主題の移行が唐突すぎる感はいなめない。


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監督ライアン・ジョンソン

キャスト
ブルース・ウィリス
ジョセフ・ゴードン=レビット
エミリー・ブラント
ポール・ダノ
ノア・セガン

作品データ
原題 Looper
製作年 2012年
製作国 アメリカ
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