2010年5月29日土曜日

「都市の政治学」 多木浩二 1994 ★★★★

「都市論」に関する書物の中で現代的問題を具体的視点を持ってこれだけ分かりやすく批評している本は久々に手にしたように思われる。

何といっても、「第一章 都市の現在 ー ゼロをめぐるゲーム」における「2 あたらしき悪しきもの」と「3 コンビニ繁盛記」。「第三章 都市の世界化ー外部化される都市」の「2 エアポートの経験」はまさしく現代を表象する現象であり、建築と社会が向き合っていくべき課題であろう。

読めば読むほど、「都市」というものが多様な要素にて構成され、それぞれの要素が複雑に絡み合いながらバランスを変え、一瞬一蹴姿を変える、なんとも捉えにくい対象であるのが再認識される。

欲望、消費、ネットワーク、スケール、イベント、文化、ゲーム、空港、開発

本書で語られる側面だけでも非常に複雑なバランスで都市が成立しており、何をどう操作すればどんな変化が生まれるのかを予想するのは非常に難しい作業だということを理解する。

それでも、都市無き現代社会が成立しない以上、どんなに困難でもそれを理解しようとする作業を諦める訳にはいかず、どれだけ表皮が重なっているのか分からなくとも、こうして一枚一枚丁寧に都市という表皮を剥いていくことをやめてはいけないのだと改めて理解する。

以下、本文より抜粋する。
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序章 都市を考えるために 
都市を巻き込み、世界が変わりつつある 
パスポートという一枚で検閲保証 他のエアポートとのネットワークに依存 世界都市 
交通手段の変化による世界の変質 

第一章 都市の現在 ー ゼロをめぐるゲーム
1 欲望のかたち
都市とは欲望を住処にして人間が夢と覚醒のあいだの日々を送る場所

愛を基礎にした結婚と資本主義との関係 核家族 個人の愛を基礎にした結婚 個人を成立させた資本主義文化のひとつ 
資本主義以前 部族全体や家族の関係できまる 
医療の進歩 子供の死亡率の減少 子供が社会に認識 
郊外ニュータウン 核家族の一大集団 

2 あたらしき悪しきもの
消費のスタイルー商業が都市を揺るがす  商品が溢れる都市 
ベンヤミン 19世紀パリ パサージュ  商業 当時は悪しきもの 全天候型の都市出現 全時間型 夜が変わる 商店街と交通路の分離 都市と商業施設 建築家長く低くみてた 
パサージュからデパート スーパーマーケット 
資本主義都市で買い物のパターンがどう変化 
パサージュ 1870年代のデパートで意味失う  
買い物パターンが変化する デパートからスーパーマーケットへ 

3 コンビニ繁盛記
コンビニー新しいエコノミーの誕生 
便利さの追求 買い物の極小化 
コンビニ 複合施設 ショッピング・センター   

コンテナーのネットワークがひろがる    
プラグ・イン 規格化されたコンテナ 誰も客を誘惑しない 商品の貧困さ 情報社会の申し子 単身者を主な対象 冷蔵庫の延長 

都市の最小スケールである私的生活の一部に都市を組み込み、あるいは最大スケールである都市の仕組みに私的な空間が組み込まれる 

消費社会が基盤とした差異化 
浪費という概念成り立たない 欲望の変質 貧困化 コンビニは想像力を刺激しない 

情報社会がコンビニの成立条件 都市を均質体験 どこにいっても見たことがあるコンテナ コンビニの成立 コンピューターのネットワークができてから コンビニのレジは本社のコンピューターの端末

4 ユートピアなき文化
カーニヴァルからイベントへ 
いろんな活動があつまって総体として現れる かつて形式が先行 形式を背景に活動が意味を持つ 
地域性を無視するメディアの支配 
東京オリンピック 改造する為 イベントは文化的でなけてばいけない 
テーマ・パークというモデル ゲームの都市化 
地方性の消失 擬似イベント 

第二章 都市の政治学ーネーション・ステートの首都からの変貌
死の場所 もうひとつのユートピア 強制収容所 アウシェヴィッツ ビルケナウ 絶滅都市 消費は無 効率的焼却炉 

第三章 都市の世界化ー外部化される都市
1 都市が混じり合う
都市より大きな単位が現れる

2 エアポートの経験
都市をつなぐ旅
旅の持つ意味 都市は出発点 目的地 鉄道 自動車 飛行機 
鉄道の発達 空間の経験の様相 機械的速度 カントの空間概念 地理的認識 軍隊輸送 国境の経験 フィクション 世界は異質性 船舶へ接続 世界を一体化 ジョール・ヴェルヌ「80日間世界一周」 
19世紀ブルジョアジーの歴史意識 鉄道 都市に駅 
日本 通過駅 
ネーション・ステートの首都の駅 終着駅 
鉄骨とガラス 古典的様式のファサード 

エアポートー主体と他者
都市からはみでた場 
飛行機の旅 
地球の経験を変えた 
都市と都市をつなぐ旅の印象を希薄化 
エアポートぁらエアポートへ旅 
飛行機のなか 無能な身体 拘束される 
国境を経験しない 孤立した場
 現代という時代に顔を与えるのは空港ではないか 

空港での二つの経験 
主体と他者の関係 権力空港 
普段感じない国籍 パスポート 政治空港の経験 管理下 
都市を超えた都市 空港が都市と遠い 

3 巨大開発が進むとき
世界の都市が似てきた
似たような再開発計画 同時性 
よく似た風景 1960丹下 東京計画 
建築がつくる原風景の喪失 原風景 世界になんらかの根拠を残す 

ロンドンのドックランド
19世紀の港湾開発 風景としての都市の貧困化 
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目次
第1章 都市の現在
1 欲望のかたち
2 あたらしき悪しきもの
3 コンビニ繁盛記
4 ユートピアなき文化
5 物の世界
6 危ない都市

第2章 都市の政治学
1 ネーション・ステートの首都
2 ユートピアが可能であったとき
3 力の政治学

第3章 都市の世界化
1 都市が混じり合う
2 エアポートの経験
3 巨大開発が進むとき
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2010年5月27日木曜日

「流れる星は生きている」 藤原てい 中公文庫 2002 ★★★






















朝鮮半島で緊張が高まる中、二つの戦後を読み比べた。

敗戦後、侵略先の国の領土を必死に祖国を目指し生きぬきながら、ほんの少し前まで被侵略側だった人々からの個人としての温かい施しや、同じ日本人の集団としての極限の生活の中で見えてくる人の本質と欲望。

3人の子を抱える母として、家族の為という生きることへの根源的な力。

朝鮮人として敗戦後の日本での家族を描く「生きることの意味」と合わせて、終戦が与えた終わりと始まりの意味を見せてくれる作品。この文章が夫・新田次郎に作家になることを決意させ、わがままで泣き虫として描かれる二男が数学者藤原正彦となっていく。


何も食べるものがなくなり、3人の子供達に与えるものを何とか手に入れる為に町中に物乞いに向かうと、ある現地女性が「何も喋るな、貴方が何か喋れば私は村八分にされる。戦争中は日本人を恨んでいたが、貴方たちに恨みがある訳でない。私がものを捨てるから、それを拾うのは私には関係無い」と、米や野菜をカゴにつめ近くの草むらにおいて行く。

食べることが生きることを意味し、生きることは祖国に帰ることを意味した日々の中、国を超えた人間としての根源の優しさ。

そして生きることの容赦ない厳しさ。

靴が破れ、踏んだ小石が足の裏の皮膚の中にめり込んで、化膿して真っ青になっても、丸一日歩き続け38度線を超える。子供を蹴りながら止まったら殺されるという想いだけで、ひたすら南へ、釜山へ、下関へと足を進める。

栄養失調のために死んでいく子供や、路中集団から取り残されそのまま亡くなる人々の身体を横目に、ただただ先へ、故郷へ帰るという希望と子供を生かすという想いが身体を支える。


食べることが生きることを意味しなくなった現在の日本で失われたのは、身体を支える希望と生かすことへの必死の想いを子供達に伝えられる場ではないかと思う。

2010年5月26日水曜日

「日曜日たち」 吉田修一 2006 ★★★

月曜日でもなく、土曜日でもない日曜日。そんな日曜日を生きる5人の若者達の姿を描く連作短編集。連作短編というのがこうしたつながりを持って作品になりうるのかと感心させられる手法である。

「日曜日のエレベーター」
「日曜日の被害者」
「日曜日の新郎たち」
「日曜日の運勢」
「日曜日たち」

それぞれの話には必ずある兄弟が出てくる。何か関連がある訳ではないのだが、その兄弟の存在でバラバラのはずの5編が何故か一塊の物語として認識される。

「日曜日」という1日の過ごし方。それが人によってこれだけ多様なものになり、そんな多様な日曜日を過ごす人々がすぐ近くに存在しているというのもまた、「都会」の魅力の一つであろう。

「日曜日のエレベーター」のフリーターの渡辺は、別れた恋人の圭子がエレベーターで一階の収集所までゴミを出しに行っていた姿がなぜか忘れられない。

「日曜日たち」の派遣社員の乃里子は、長年住んだ東京から地元の名古屋へと引越しを決めた独身女性。「15年暮らしたこの街をあとにする。嫌なことばっかりだったわけではないと乃里子は思う。そう、嫌なことばっかりだったわけではないと。」という台詞が、夢を持って東京にやって来て、月日が流れ、結局この街を離れることになる多くの人々の気持ちを代弁するかのようである。

特に印象的なこの二人の主人同様に、全ての主人公は30前後の独身男女。決して不幸ではないのだが、何か満たされないものを抱えながらまた日曜日を迎えていく。そんな人々。

楽しいだけではダメで、やはりその先の人生を考え始める段階に差し迫った世代の主人公達。その時に今住む東京がどういう場所なのか、そして自分の人生がどうなって欲しいのか。

彼らの悩みに耳をかけながら、あーだこーだと言っては一緒に酒を飲む。そんなことを思わさせるなんとも魅力的な主人公達。そしてそんな人が街に溢れているのが東京という大都会。そんな都会の魅力をこういう風に感じさせるのもまた作者の技術だろう感心する。

「生きることの意味―ある少年のおいたち」 高史明 ちくま文庫 1986 ★★★★






















ある日、長屋の家に帰ると、居間の真ん中にウンコがしてある。

帰ってきた兄と父に言うと、「きっと、泥棒が入ったんだ」という。なぜ、ウンコが泥棒につながるか。それは、昔の朝鮮の諺に、「泥棒がウンコを残すと、その泥棒は決して捕まらない」というのがあるという。

こんな盗むものもない貧しい部落の家に盗みに入って、捕まるのが恐ろしいという思いから、狭い家のなかで戸口に向かって必死にウンコをしている泥棒の姿を想像し、親子3人、笑いが止まらなくなる。

「流れる星は生きている」に描かれた敗戦後の朝鮮に生き、祖国を目指す日本人。
これは敗戦の日本に生きるまなざしを祖国に向けながらも、日本に生き続ける在日朝鮮人の家族の物語。

1910年の日韓併合に伴い、急増した朝鮮からの移民。土地調査事業によって、持ち主不明の土地として、それまで慣習に沿って土地を所有していた人が持ち土地なしの流民として日本に労働力として移住させられ、さらに文化の象徴でもある、言葉を強制的に奪われた35年間の間に、移民一世の子として、父と兄のまなざしに見守られながら、「人はなぜ生きるのか?」の問いに答えをだそうと、そして、「どうしたら日本人と朝鮮人が仲良く暮らせるか?」を子供なりにひたむきに考え、悩み、苦しむ日々。

片言の日本語しか話せなく、酒飲みでばくち打ちの移民一世の父のまなざし。

勉強が好きだけど、父の反対のために進学をあきらめる兄のまなざし。

移民二世として、朝鮮人としての自我と争い続ける自分のまなざし。

困難に立ち向かう勇気を教えようとしてくれた阪井先生のまなざし。

敗戦によって依るべくものを失い、どうした態度をとっていいのか迷う先生達のまなざし。

様々なまなざしに囲まれながら、死によって終わる苦しみではなく、立ち向かうことで見えてくる生きることの喜びを、自分なりにどう見つけていけるか。

子供時代の気持ちを、その時の言葉で書いていて、毎日揺れ動く感情がストレートにあらわされているだけに、ぜひ子どもに読んでほしい一冊。

2010年5月25日火曜日

「ふしぎの国のアリス」 ルイス・キャロル 集英社文庫 1992 ★★
















「寿限無、寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末・・・」

地下鉄に乗っていると、小学生の兄弟がクスクス笑いながらこんなことをを口ずさんでいる。
これがイギリスのチューブならば、

「タートルのトータスがトート・アス・・・」

という言葉遊びになるのだろうかと思いを馳せる。


「アリス・イン・ワンダーランド」ではなく、不思議の国のアリスの方。
アバターを越える人気ぶりだとかいうので、これはと思い久々に読んでみる。

ミヒャエル・エンデばりの深いメッセージなどはなく、ただただへんてこな事が続く子供の妄想。解説でもあるが、妄想をファンタジーに昇華させる細部のディテールにこめられたリアリティ。

キャロルが即興で姪っ子に聞かせた、文字通りの「地下の国のアリス」という話に脚色を加えて完成した不思議の国。自身が吃音持ちということで、それにユーモアを付け加えて、子供のイマジネーションそのままの童話へと形を変えて世界に広まるアリスの冒険。

しかしアバターには遠く及ばないと思うのは、薬を飲んでも無いのに大きくなった自分の時間のせいだろうか。

わかったふりをするよりは、これはなんだ?と思う方がましという解説の阿乃田高の言うとおり、子供にしか見えない世界があるということだろう。

2010年5月24日月曜日

一年越しのタスキ















昨年のこの時期に、病院の集中治療室のベッドの上にいた。

同年代の友人と昨年から開始した駅伝チーム。健康維持を当初目的で始まったのだが、目標が必要ということで、4人で一チームの各3チームの計12人のメンバーで、5月の末に行われる谷川真理駅伝に参加した。

だが、仕事に追われての睡眠不足と当日の高湿度が重なり、残り100mというところで脱水症状に見舞われ意識を失ってしまう。

意識の無いまま、その場にいた大会担当の医者にAEDを当てられ、救急車で近くの緊急病院に運び込まれる。チームメンバーは駅伝どころではなくなってしまい、皆タクシーで救急車を追って病院に駆けつけてくれた。

意識が戻ったのは救急車の中で、何が起こったのか理解できず、目の前にいる沢山の医者と看護婦の顔を眺める。

看護婦さんから「名前は言えますか?」と聞かれ、答えるが、看護婦さんが繰り返す名前がまったく違い、言葉がはっきり言えない事を知る。

本当に一度死んでしまったのではと思うくらいの恐怖に襲われ、後遺症が残るのではと思うが、その後遺症という単語も思い浮かばない。体中に管を挿され、今は何も考えずに身体を休めないととひたすら思い、目を閉じる。

集中治療室ということがあり、家族以外は中に入れない。駅伝のメンバーの中の、同じ高校の友達が携帯から兄へ連絡を入れてくれて、暫くすると川崎から兄が病室に来てくれた。

極度の脱水症状で血液中の水分が失われ、脳に血液が循環しなくなったことが理由というので、ひたすら点滴から血液に水分を与え、尿道に挿された管により排泄することを繰り返す。

結局3日間集中治療室から出してもらえず、ただただ身体を休めてやり、なんとか無事に退院できたときは、本当に後遺症も残らず、歩いて病院をでれたことに感謝した。

それから一年。繋げることが出来なかったタスキによって止まった時間を再度動かす為に、去年と変わらぬメンバーで今度は皇居の周り(一周5km)を、3チームに分かれてタスキを繋ぐという大会を開催した。

体調を整え、無理の無いペース配分を身体に覚えさす為に時間を見つけては夜中の芝公園周辺を走りこみ、前日の睡眠も十分で本番に臨む。

小雨の降りしきる中の本番になったが、9;30に第一走者のスタート。20分を過ぎ、そろそろ第二走者の準備。24分を切るタイムで入ってくるトップのレオ君。ヒデがタスキを受け取り走り出し、その後に我がチームのキノジュンが戻ってくる。タスキを受け取り走り出す。代官町の坂で心が折れそうにないつつも、なんとか24分で走りきり、3走のけんちゃんにタスキを繋ぐ。一年越しの想いと時間ののったタスキを繋げたことにただただ感動。そして無事に走りきれたことにほっとする。

第4走者のマーシーの激走も及ばず二位だったが、とにかく皆が無事に走り、タスキがしっかり戻ってきたことが嬉しかった。皆でお金を出し合って用意した優勝トロフィーを個人優勝のDに授与され、皆で美味しいビールを飲みながらの打ち上げ。ワイワイ騒ぎながらのとても楽しい時間を過ごしていると、お店のおばちゃんに「若いっていいですね」と。決して若くはないんだろうが、確かにこのメンバーはいつまでも若いんだろうなと思う。

昼過ぎには皆次の大会への気持ちを確かめつつ、ほろ酔いで家路に着く。全身筋肉痛だけど、それ以上の幸福感に包まれる昼下がり。一年分の解放感を身体に感じながら、悪くないなと思わずにいられない。







2010年5月20日木曜日

「裸のサルの幸福論」 デズモンド・モリス新潮新書 2005 ★★★






















マリス博士の奇想天外さも好きだが、やはりモリス博士のサルは抜群だ。

「人間は霊長類の中で唯一、体毛のない「裸のサル」である。」

という仮定をもとに、動物行動学から、現代には一体どれだけの裸のサルがいて、どんな教育様式や、生殖行動を行うかという分析によって世界を読み解くという前作「裸のサル」に続き、今度はそのサルどもにとって、幸福とは何か?

なぜコカインは麻薬中毒者を幸せにするのか?

なぜ自爆テロを行う人は、人々を粉々に吹き飛ばすことが自爆者の至上の幸福感をもたらすのか?

という、様々なジャンルの幸福について、人類の発展の歴史を紐解き、分かりやすく解説する幸福論。

まずは、「満足」と「幸福」の違いから始まり、満足とは人生がうまくいっている時の気分で、幸福は人生が突然好転した時に我々が体験する感情であると明確な定義。それは、人生の「劇的」な「変化」によってもたらされるから、長続きしないのが「幸福」。残念。


原始社会の「狩猟」にルーツを見出す「標的」と「競争」、そして獲物を分け合う「協力」の幸福。

「恋に落ちる」という人間特有の行動と、子供が自立する前に次の子供を生むことができることによる長い養育期間から発生した、拡大した家族の形式。

どんな種でも再生産の決定的瞬間にオーガズムという褒章がなければ存続できないが、他のサルの場合はオスに限定された性的オーガズムが、裸のサルにはメスにも与えられることによって、意識の深層に閉じ込められた排卵期という遺伝子の企みにまんまとはまり、カップルを形成するプロセスに導く官能の幸福。

生まれた当時、泣くことしかできない赤ん坊が3-4ヶ月で獲得する笑いの幸福。


様々なサルにとって、幸福とは様々な形をとって現れるが、ただ一つ共通するのは、

「幸福とは一つの態度である。」

幸福に翻弄されるあまたのサルたちを乗せて、今日も地球は楽しげに回っていということか。

2010年5月19日水曜日

「不在に忍び寄る(イランと向かい合って)」 東京画廊 ★★★

懇意にしていただいている東京画廊さんで今日から始まった展覧会のオープニングに合わせて開催されたシンポジウムに顔を出してきた。

昨日、今手がけている銀座の老舗呉服屋さん「伊勢由」さんの女将さんの実家のリノベーションの縁もあり、呉服の勉強をさせていただこうと、銀座の本店に顔を出した帰りに、東京画廊さんにも御挨拶に寄ったら、キュレーターのシャヒーンさんと、作家のサラさんをオーナーの田畑さんより紹介していただき、

「来年からはインドをやるから。インドは難しいよー。」

と、その先に横たわるまだ見ぬイスラム・アートのついていろいろお話を聞き、モザイクのベールに包まれて、なかなか垣間見ることの出来ないイランの生の声を聞けるのを楽しみに足を運ぶ。

会場はかなりの数の外国人のゲストに埋め尽くされ、現在の緊張したイランの政治状況も踏まえたかなり込み入った話が聞けた。

政治によるセンサーシップによって表現が制限される現状についての話で、グローバリゼーション後の世界において、センサーシップの枠組みから離れた場所での作品の発表が可能になった新しい世代の作家にとって、表現の内容及び手法は変わってくると思うのか?もしくは、そのセンサーシップというのは、外的要因として存在するのではなく、自らの内部にあり、それが逆に文化の枠組みを決定しているということはありうるのかと、少し気になったので聞いてみると、なかなか興味深い答えが返ってきた。

シンポジウム後も個別に話が出来たので、誰か一人が意識的に決定したものとしてのセンサーシップではなく、共同体の蓄積として、社会、歴史、モラル、文化、宗教と様々な要因がからみあい、内的な制限として生み出される曖昧なセンサーシップは、別の観点から見れば、発想のモチベーションとして起因し、ネガティブな面を見るのではなく、そこの内在されるポジティブな側面を見ることが、ペルシャ・アートとしてではなく、イラン・アートとしての枠組みをより明確にしてくれるというのではと、サラさんともかなり面白い話ができた。

「ある種の作品を発表したら、二度と国に帰れなくなる」

という、作家の言葉に、勉強不足を痛感すると共に、今年か来年にでも中近東に足を運んで、象徴の中の具象というものを実際見てみたいと思う。

2010年5月18日火曜日

「プラスティック」 井上夢人 講談社文庫 2004 ★






















過疎的(プラスティック)な身体と心を持つ総体としての自分。

あなたは一体だれですか?


岡嶋二人時代の作品「99%の誘拐」に見る折り重なるトリックのラビリンス。

そしてコンビ解消前最後の作品「クラインの壺」は、完全に「アバター」を先取り、超越していたので、一人になって一体どんな作品を送り出すのかとその後の作品が期待されていたが、どうもコンビ時代を超えれていない感がいなめない・・・
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「リプレイ」 ケン・グリムウッド
「かわいい女」 レイモンド・チャンドラー
「ことばの人間学」 鈴木孝夫
「紀の川」 有吉佐和子
「パパラギ」 エーリッヒ・ショイルマン
「失われた私」 フローラ・リータ・シュライバー
「歯車」 芥川龍之介
「ウィリアム・ウィルソン」 エドガー・アラン・ポオ
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2010年5月17日月曜日

「国家の品格」 藤原正彦 新潮新書 2005 ★





















「一つの言語で10割の力がないと人間としてまともな思考ができない」

パソコンのブラインド・タッチができたり、英語が流暢に喋れるよりも、

夏目漱石の「こころ」の先生の自殺と三島由紀夫の自決に関係性や、
縄文土器と弥生土器の違い、
元寇の二回の違い、

とは言わないまでも、

しっかり伝える内容を養う為に、国語の教育が重要だという著者。

小学生にはしっかりと、国語、数学、理科を教え、
読書を通しての「情緒」や「形」を重んじた日本型文明の可能性を主張する。

確かに。

以上。
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「カンタベリー物語」
「大破局 フィアスコ」 F.パートノイ
「虫の演奏者」 ラフカディオ・カーン
「武士道」 新渡戸稲造の
「武士の家計簿」 礒田道史
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2010年5月16日日曜日

伊勢丹 グローバル・グリーン・キャンペーン @ 毎日新聞jp.

開催中の伊勢丹「グローバル・グリーン・キャンペーン」の記事が、毎日jpに記事がUPされました。


また、これ以外にも「日経新聞」や「エキサイト」にも露出が決まっています。

ぜひご覧ください。

2010年5月15日土曜日

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館 谷口吉生1991 ★★★
















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所在地 香川県丸亀市浜町80-1
設計 谷口吉生
竣工 1991
機能 美術館
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人口11万人の讃岐の中核都市・丸亀。このような地方都市では「祭り」というのイベントはまだまだハレの日の様相を見せてくれる。
市の最大級のイベント「お城祭り」クラスになると、小中学生にとっては一年に一度の思い出作りの日で、目一杯のおしゃれをして、誰とでかけようか、気になるあの子に告白しようかと、気合の入り方が格段に違う一日の時間が流れてるんだというのを感じながら、レトロな雰囲気をかもし出す駅前商店街に鳴り響く嬌声の中を丸亀駅に向かうと突然広がる駅前広場。
どーんと広がる駅前の空気を、そのまますぅーっと吸い取る掃除機のように口を広げる立方体が目前に待ち受ける。地方都市の駅前らしく、そんなに大きくないスケールに対して、かなりでかいプラトン立体のスケールのはずし方。視線と動線を受け止める都市的ゲートの役割を果たす。その見えない力線に引きずられるように建物へアプローチ。
建物全面の広場は、ストリート・レベルよりやや上げられていて、左側の階段よりプラザレベルという基壇にあがる。天気にも恵まれたこともあり、プラザではアーバンスカルプチャーの中、子供達を集めてのワークショップが開催されていた。文化施設が都市に開き、市民がそれを受け入れているよい風景になっている。
エントランスは、やはり一度身体を90度回転させて、更に逆に90度回転されるという、お得意のアプローチ。その左には、プラザ・レベルより最上階のカフェを併設したルーフ・ガーデンまで直接にアクセスできる都市的大階段。大屋根がかかっているために、風は抜け、影が熱い日差しを遮り、プラザという都市の舞台を眺める客席のように、日本では珍しく人々が座ってくつろぐ、都市階段としても機能しているようだ。ちなみにこの大階段からの各レベルの展示スペースにもアクセス可能。チケット・コントロールの為に、このようなマルチ・アクセスは運営側からしたら頭を抱えることが多いのだろうが、そういう困難よりも都市への開放性を選び、選ばせた、市民と建築家の想いに力強さを感じる。
内部に入ると待ち受けるのは、エントランスで高さを抑えられたことで感じる身体からの突然の都市的吹き抜け空間のスケール変化。ニューヨークのMOMAの一部を切り取ったような空間構成で、吹き抜けに対して異なる方向性を持って各層の展示スペースが関係付けられる。館内の撮影も問題ないという、こちらも都市への開放系。
各層で全く異なる風景として現れる吹き抜けを体験しながら、上階から先ほどの大階段へでて、トップライトから落ちる光に導かれて最上階のカフェレベルに。3周の壁が立ち上がることによって、風景から切り取られた屋上庭園に対してカフェが開かれ、その視線を受け止める水壁。その後ろに顔を出す高層マンション。見る人も、見られる人も恐らく残念だと思うだろうこの建物・・・ディベロッパーまでは都市の開放系の中に取り込まれなかったわけか・・・
カフェの細部も小物も気が利いてるディテール。心憎い気配りが空間のレベルを持ち上げるんだと感じながら珈琲を味わう。
メインの大階段をくだり、再度プラザへと戻ってくる。一筆書きでぐるりと巡ると建物を体験して最初の場所に戻ってきているという、名建築の一つの解法をしっかりと体現。
市民に愛され、大切にされて、都市に開いた開放系の文化施設の在り方を改めて学ばせてくれる良い建築である。




























































































2010年5月14日金曜日

東山魁夷せとうち美術館 谷口吉生 2004 ★★★

















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所在地 香川県坂出市沙弥島224-13
設計 谷口吉生
竣工 2004
機能 美術館
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巨大な土木スケールを持つ瀬戸大橋の架構を脇目に、次第に目の前に広がる穏やかな瀬戸内海を背景に風景に溶け込むように佇むように現れる東山魁夷せとうち美術館
後ろの背景に負けないくらい、遠近法を拡張するかのような引き伸ばされたアプローチの端で立ち上がるコンクリートの腰壁。前面に雨垂れが回らないようにとの配慮の上部の微妙な勾配にふむふむとし、ばっちり入った足元の石の目地ラインに導かれながら、その力線が指し示すエントランスに向けて足を進める。
海へ向けて、層状に重ねられる異なるサーフェイス達。まずは後ろの瀬戸内海の海に染み入るような魁夷の緑と同色のようなスレート壁面。これが後ろにあるべき瀬戸内海の風景を隠すことによって、より一層の意識付けをしてくれる。その緑の下に切り込まれたガラス面。もちろん軒下、ガラス面、床割りとばっちし目地ラインはぐるりと一本の線で身体を取り囲む。そしてガラスの端部が鋼製のスリットとなり、内部への日照をコントロールする。更に内部にはミュージアム・ショップとして利用される平行する木面。何層も重ねられた平行線により、意識は更に奥へ奥へと引き込まれる近代の透明性。
そんな奥へ引き込もうとするベクトルを身体の右側に感じながら、足元の目地ラインの端部に到着すると、お得意の一回左に折れて、小さなスケールのエントランスを抜けて、再度右に折れるというアプローチ。ここではすっかり身体スケールに縮小される建物。
雁行しながら進む展示スペースは、二層分の吹き抜けを持ち、実際よりも高さを感じながら階段を上がり二階部分へ。建物と平行に移動しながら、今度は階段を下りながらカフェ越しに徐々に見えてくる瀬戸内海の風景。非常にコンパクトだが、明確なシークエンスと空間ヴォリューム。もちろんカフェの家具も精度と緊張感のあるディテールに満ち溢れる。
最後はカフェ脇の出口から瀬戸内海の風を感じながら、シャープな庇を見上げながら、ぐるりと建物を巡りながら、エントランス脇のスリットに落ちる光を横目に建物を後にする。
全てのモノが、許容誤差が限りなく零に近づき、そこから少しでもズレたならば違和感を感じるであろう、そんな緻密な空間である。



















































金刀比羅宮 鈴木了二 2004 ★★★★

















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所在地 香川県仲多度郡琴平町
設計 鈴木了二
竣工 2004
機能 神社周辺施設
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照りつける初夏の厳しい日差しの下、果てしなく続くと思われる階段を上ると、徐々に神域へと入っていく。その先に待ち受ける本堂を仰ぎ、左に折れると伝統と近代の新しい形の融合を見せる建築郡が顔を見せる。
現在、早稲田大学芸術学校で御一緒させていただいている校長でもある鈴木了二先生による金刀比羅宮プロジェクト。瀬戸内海を見守る、海上交通の守り神として、古くから親しまれてきた讃岐の名刹。その歴史に加えられた社務所等々の施設である。
授与所棟にて鈴木了二先生に用意していただいた推薦状を巫女さんにお渡しし、見学の旨を伝えると、担当してくださる若い巫女さんがやって来てくれた。ご挨拶をし、見学の旨を伝えると快く説明をしてくださる。内部空間は関係者のプライベートスペースということで、写真の撮影は禁止されたが、階段を上りきった身体から噴出す汗に、心地よい風を感じながらの気持ちのいい見学となった。
分散する建物の前を横切るときには必ず、正対しお辞儀をする巫女さんに習い、ここには沢山の神様がいるんだという神道空間を実感しながら、緑黛殿と呼ばれる斎館棟に向かう。
「既存の遺構と新しい建物を同列に扱いたいと思いました。そして、伝統といったものを、今風にアレンジする姿勢は採りたくないと思った。実際に伝統の中に浸かってみると、結構、自由なんだということも分かったのです」
と鈴木了二先生が言われるように、一見伝統建築の木のオーダーと見間違う鉄骨による柱割り。絶対水平を作り出す鉄による人工地盤に対して、絶対垂直を表す鉄骨のオーダー。その上にのる木組みの伝統屋根組。案内された室内の階段を下りると静寂に包まれる荘厳なプライベート空間。スケールを引き伸ばされた鉄板の構造物。いやがおうにも面を意識されられる空間を巡ると一枚の鉄板だと思っていた部分が厚みを持つマッスであることに気付かされる。
先ほど降りてきた階段を振り返ると、壁から張り出し、上部から吊られて、すれすれのところで縁を切ってあるディテール。同様に上部の人工地盤との縁ももちろん切断されている。その階段の横には地形の力に抗らうように屹立する錆によって赤く陽を受けて輝く一枚の面。半屋外となっているために、
「冬にはこの犬走りに雪が積もって、とっても美しいんですよ」
と巫女さん。
外部という自然に晒されて、現代という流れの時間とは全く異なる時間軸を空間に取り組みながら、静かに佇む一枚の鉄の絵。中は見せていただけなかったが、巫女さんの個室には大きな鏡が設けられていて、踊りの練習や、着物を着るときに非常に重宝しているとのこと。その巫女さんの個室の間には、切り取られた琴平の街が眼下に広がる。風景から視線を上に巡らせると、人工地盤に切り込まれたガラスのスリットからの自然光が柔らかく、そして荘厳に室内に落ちてくる。
巫女さんにお礼を言い、地上に戻って、今度は全面の大階段へ。自然の曲線に重ねられた人口の絶対的水平線。そこに落ちる影。階段から見る、クスの木を囲う永遠に続く現場の様な中庭ごしに再度建物を眺める。絶対的な精度を求める為に、H型鋼を切断して作られたという特殊金物に支えられるガラス・スラブ。
石と鉄とガラスと木。伝統と現代に、絶対的な精度と素材で挑んだ力作。2005年度村野藤吾賞、2007年度日本芸術院賞受賞も当然の、世界に誇るべき日本の現代のあり方がここにある。








































































































































2010年5月13日木曜日

香川県庁舎 丹下健三 1958 ★★★★














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所在地 香川県高松市番町4-1-10
設計 丹下健三
竣工 1958
機能 庁舎
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日本の近代建築を方向付けた名建築。「海を渡る蝶」ではないが、一体どれほどの建築馬鹿達がこの建物を見るために瀬戸内海を渡ったことだろうか。

伊勢神宮に傾倒した丹下が、日本建築の繊細さをどうにか近代建築技術を駆使して意匠レベルまで昇華することができるかを考えた結果、たどり着いた限界の細さを持つ梁とスラブのラインによる打ちっぱなしコンクリートの積み重ね。細い部材の集積体として、圧倒的なマッス感をかもし出す全体ヴォリューム。
ピロティという名に相応しい、風と空気と光の流れ留まる空間に、庁舎建築として様々な都市活動が呼び込まれる。やはりピロティはこれだけの高さがないとね、と思わずにいられない。

日本建築がもつ見えない領域の境界線の存在と同様の感覚を感じさせてくれる、日本近代建築の黎明期に立ち上がった名建築。ぜひ。